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根福寺城跡と殿の墓

(こんぷくじじょうあと)
この城は、1535(天文4)年に和泉国の守護代であった松浦肥前守守(まつらひぜんのかみまもる)によって築城されたと伝えられています。元々は「野田山城」と呼ばれていましたが、543(天文12)年に根来寺領となった時に「根福寺城」と改称されたと言われています。
江戸時代に描かれた「根福寺城絵図」(岸和田市教育委員会所蔵)によると、山全体に城郭が築かれていたようで、現在も大門跡や曲輪(くるわ)、空堀などが残り中世の山城の名残をとどめています。城の規模は東西約500メートル、南北約850メートルで、大川と秬谷の北側にあり標高283メートルの山頂にありました。府下では、飯盛城跡(大東市・四條畷市)、芥川城跡(高槻市)と並ぶ規模です。
基幹農道沿いに「根福寺城跡と殿の墓」の案内板があります。その反対側の共同墓地入口には五輪塔を浮き彫りにした墓碑があり、松浦肥前守守の墓とされ「殿の墓」と呼ばれています。


公式サイトより

施設名称根福寺城跡と殿の墓
所在地貝塚市大川と秬谷の北側